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スペード・エース

推理(パズル)/原稿用紙43枚/2004.1.9



 目の前に、三つの扉があった。

(間違えたら、オレは死ぬんだったな……)

 汗が噴き出た。

 男は震える指で、一つの……



         1

 平成元年、春。満開の桜の花びらが淡い陽〈ひ〉の光と舞い、行き交う人々に、柔らかく触れては反射していた。
 駅から街道へつながる、小金井の北町を通る道である。商店街の一角を通り過ぎ、橋を渡ってすぐの路地に折れると、奥に三階建ての、築二十何年になるかというその薄汚いマンションがあった。外壁はかつてはベージュ色の塗装が施されていたのだろうか、今は色褪せ、灰色に汚れている。あちこちにひびが走り、所々モルタルが剥がれていた。
 二階の北側の一室。ネクタイを少しゆるめた。一回深呼吸してから呼び鈴を押す。が、応答がない。うっすらと埃が浮いたノブを回すと、不用心なことに鍵はかかっていなかった。平田俊明〈ひらたとしあき〉はドアを開けた。
 その瞬間、辺りの騒音がその部屋に吸い込まれて、真空になってしまったかのような感覚に襲われた。同時に闇色の空気に包まれ、何も見えなくなった――
 俊明は軽く頭を振った。錯覚である。――ちゃんと音は聞こえるし、目も見える。春の陽光に慣れた目が、室内を暗く感じ過ぎただけのことだった。
 ワンルーム。
 まず入って左手にキッチンがある。シンクには食器が山積みにされていて、水道の蛇口をひねったら、水は皿や鍋をつたい、そのまま床に流れ落ちてしまいそう。相変わらずの様子だが、つまりちゃんと食事は摂っている、ということなので少し安堵した。キッチンから奥へ目をやる。部屋の左手の壁側だが、まず衣装箪笥が置いてあって、その隣に壁に沿ってシングルベッドが置かれている。ベッドにはノート型のパソコンが転がっていた。
 反対側、部屋の右側に目をやると、手前にまずトイレ、そしてバスの小部屋があった。そこから奥へ向かって、本棚が壁一杯に並んでいる。すべての棚には、ぎっしりとさまざまな高さと厚さの書物が並んでいた。それでも足らず、フローリングの床に、足の踏み場もないほど、本やら書類やら、その他何かの部品やらが積み重なっていたのだった。
 一番奥、北側の壁にこの部屋唯一の窓があって、昼だというのに厚いカーテンが引かれている。天井には白熱灯を模した球形の蛍光燈がぶら下がっていて、この部屋を明るくしようと、健気な努力を続けていた。
 部屋の中央やや奥、本棚寄りの場所に、窓向きに机が置いてあって、この部屋の主〈ぬし〉が、こちらに背を見せて椅子に腰掛けていた。
 卓上のリーディングランプが灯っている。相変わらず読書に没頭しているのだろう。その人物――精悍な短髪、大柄な俊明と違い――肩まで届く長髪、スリムな体付きの人物だった。コットンのホワイトシャツを着ている。ホワイトシャツにジーンズ。それ以外の服装は、あまり見たことがない。そんなことを思い浮かべながら、俊明は声をかけた。
「ちょっと、ヒントがほしいんだ」
 返事はない。いつものことだから気にせず、俊明は勝手に中に上がり、自分専用のスリッパを突っ掛けた。歩きながら床に寝ていたパイプ椅子を持ち上げる。本やら装置やらを避けながら歩き、机の前に回った。そこには、置くにも取るにも不便だからか、物が何も置かれておらず、人一人が十分入りこめる空間があったのだった。オレの指定席だ、と俊明は勝手に決めている。彼はパイプ椅子を据え、持って来たブリーフケースをそこに置いた。
 まず、窓のカーテンを開く。――ああ、昼の光よ! 北向きで住宅密集地で、景色ははっきり言ってどうしようもないのだが、明かりだけは健康的な昼の光だった。
 振り返る。目の前の人物。若い男だった。ちょっと見には、少年にも、あるいは少女にも見えないこともない。これが俊明の年若い友、冬荷佐知〈とうにさとし〉だった。俊明が掴んでいるデータが正しかったら、現在、十九歳のはずである。

         ※

 冬荷佐知、通称サチ。ご機嫌麗しいときは、サッちゃんでもオーケーだ。(ちなみにオレは「トシ……」と、呼び捨てられている)
 冬荷〈サ〉佐知〈チ〉は都内の大学を中退したあと、この古マンションの一室に閉じこもり、日がな本を読み続けている変り者だった。
 いつだったか、生活費について興味本位に問いただしたところ、一言「宝くじ……」と、返事があった。彼が単なる確率のゲーム、宝くじなんかに興味を持っていたとは意外だったが、それはともかく、どうやら当てたらしいのだ。その時はなぜか恐くなって、賞金額をとうとう訊けなかった。これは今も謎のままになっている。

 出会いは平凡なものだった。
 平田俊明は三年前父親を亡くし、その父が経営していた小さな印刷会社を、二十六という若さで引き継いだ。そこへ当時高校生だった佐知が、バイトに応募してきたのだ。
 彼は三日目に辞めた。その際俊明に、「塗り絵……」と一言残したのである。
 この一言に、俊明は、自分でも驚くほど動揺してしまう。思いあまって、幼児用の「ぬりえ」を買い求めたほどだった。
 真剣に「サユリちゃん」とか「こねこのベル」やらに色を塗っている姿は、本人自身が勇ましい分、はたから見てさぞかし滑稽だったであろう。だがそうして仕上げた作品は、自分でもほれぼれするような出来だった。それもそのはず、輪郭線の中にただ、色を入れただけなのであるから――!?
 その時だった。一つの、突飛な考えが浮かんだのだ。
 ――文字を、塗り絵にしたらどうだろうか?
 コンピュータが表示する文字は、ご承知の通り多数の点の集合であり、その点一つひとつに位置データが与えられていた。つまり文字一文字は、膨大なデータの塊なのである。これを、輪郭線データのみの文字にしてしまうのだ。輪郭だけの文字にしたら、ベタ塗りの文字よりも点の数が少なくなる。つまり、メモリの大幅な節減になるはずであった。
 ということは、高価な専用マシンを使わずとも、パソコンベースで作業ができるということである。
 また、このような軽いデータならば、装飾や変形などのさまざまな処理もより簡単に、速くできるだろう。最後に残された、輪郭線の内側を塗り潰す処理は、きわめて簡単である。
 ……技術革新のスピードは信じられないくらい速い。今となってはもう時代遅れのテクニックである。が、当時はそれはそれはもう、目からウロコの画期的なアイデアだったのだ。
 俊明は関連資料を精力的に調べ、輪郭線の作成とその文字の認識方法について一つのアイデアを思いついた。文字の外形形状とその画数を利用する方法であったが、多少の紆余曲折の後、それで特許を取得することができたのだった。あとはトントン拍子に物事が進んだ。この技術を使って社のDTPシステムを刷新し、処理能力を十数倍に向上させた。同時にコストダウンにも成功し、受注の大幅増につながった。新鋭のソフトウエア専門会社から打診があり、渡りに船と契約を結んだ。おかげで多額のロイヤルティを手にしたばかりか、システムのメンテと進化が保証されることになった。無愛想だった銀行が、もみ手をしてやってきた。――いつの間にか、会社は、思わぬ発展を遂げていたのである。
 もともとは、佐知の一言のおかげ――
 佐知のバイトの内容は、単純な力仕事、製品の梱包作業だった。思い出す限り、資金繰りと技術的問題に悩んでいる姿を見られてしまったのは、ただの一度、偶然による数秒間のことである。それだけで、佐知は結果的に会社の発展につながったアドバイスができたのだ。
 俊明は特許料の一部を佐知に手渡しに出向いた。佐知を捕まえるのに一ヶ月かかった。以来、二人の交流が続くことになったのである。

 つきあいが始まって俊明は、佐知に思い知らされることになる。
 まず、頭が切れること。
 次に、口数がえらい少ないこと。たまにしゃべっても、ほとんど一言で終わってしまう。その他、ものぐさであるとか、冷めているとか、人をよく見下すとか、人付き合いが苦手とか多々あったが、それらはおいといて、特記すべき点が一つあった。
 それは、犯罪捜査に興味を持っているということだ。
 まるで私立探偵のようだが、まさしくそうなのだった。それもホームズのように地面に這いつくばって鼻をくんくんさせるタイプではない。ずばり、安楽椅子探偵〈アームチェアディテクティブ〉だ。
 佐知はテレビや新聞から興味を持てそうな犯罪のニュースを得ると、あとは、その後のマスコミの報道やインターネットから得られた情報、ときには俊明が収集した情報だけで推理し、真相に辿り着いてしまうのだ。
 そこには多分に想像が入るのは仕方なかったが、結果として間違えたことは俊明の知るかぎり一件もなかった。
 事件の結論を出すと、彼は一言だけしゃべった。あるときは「振り子」だったり、またあるときは「のど仏」、あるときは「キリン」だったりした。
 その一言を差出人不明のハガキに書き、警察に投函するのが何を隠そう、俊明の役目なのだ。そして後日、俊明はそのキーワードがもとで、事件が解決した(ように見える)ことを知るのだった。

         ※

 俊明は佐知の本を取り上げた。佐知は一瞬三白眼で睨んだが、瞬き後、やれやれとでも言いたげに俊明を見上げる。ため息をつき、髪の毛を無造作にかきあげた。病的な白い肌。大きな瞳。これが、冬荷佐知だった。
 俊明はちらと本に目をやった。彼は英語が多少できるが、その本の文章はまるで読めない。俊明は顔をしかめて、
「何語? これ」
 と訊いた。
「ロシア語……」
 たしかに一言。が、物静かな柔らかな声だった。機嫌はよさそうである。それに勇気を得て、もう少し会話を続けてみることにした。
「なんの本? お前の興味を引く、なんか面白いことでも書いてあるんかい? 当たり前か、面白いから読んでるんだ。でも今更、お前の興味をなにが引くってんだ? 気になるねえ、実に気になる。おい教えろよ。なんの本なのさ」
「養豚……」
「……そいつぁスゲエぜ。畜産かい。いよいよサチも外に出てビジネスやる気になったんか! それにしても意外な所に目をつけたもんだな。養豚かよ。お前のやることだから、さぞかし儲かるんだろうなぁ。あ、それとも単純にうまい豚肉を食いたいだけだったりして。お前は凝るからな。品種とか見分け方とか。ホホゥ、この色つやをご覧なさい、この黒ブタは飼育が健康的でよろしゅうございますな、てなっ? いや、さぞかし美味しいんだろうなぁ。噂によると頬肉が罰当たり的な旨さだっちゅー話らしいぜ。うわ、考えただけでもヨダレ出る。今度食いに行こうや。でもまたなんで、ロシア語なんだよ?」
「ドイツ統一……」
「……」
 手の本を机に戻した。ここまでだった。きっぱりと思った。
 わからん!
 ブタとロシア語と東西ドイツの悲願が、どう関係しているというのだろうか!? 暴れまくって喚きたい気分だった。
「……それはともかく、また助けてほしいんだ!」
 強引に話を曲げることにした。長いつきあいで、ここら辺の呼吸は身についている。(あるいは、トシヨリのずーずーしさとでもいうか?)はたして、佐知は少しだけ恐い顔を作ったあと、あきらめたように肩をすくめてみせたのだった。

「実は、その……」
 ここにきて、俊明は言いよどんだ。
「……実はだな。昨日、香苗〈かなえ〉さんにプロポーズしたんだ」
 俊明は言い切ると、ぐっと佐知を睨んだ。笑ったら許さん、という顔だ。
 しかしながら、これは笑われても仕方ない状況だった。ふだん先輩風を吹かしているオトナが、昨日のプロポーズの話を、汗をにじませながら体を緊張させながら、恥ずかしそうに十歳下のコドモに白状しているのだから。仮に自分が相手の立場だったら、この機を断然捕らえて離さない! ここぞとばかりに冷やかしにかかるだろう。首を絞められても、噴き出る笑いを止めることができないはずだった。
「……」
 さすがに佐知は無表情だった。俊明の気張った顔を、このたびはいやに冷めた目で見返している。睨み合いでは俊明に分はなかった。彼はつと視線を外すと、体をもぞもぞと動かしながら、もう一度言った。
「とにかく、プロポーズしたんだ」
 一度白状してしまえば言いやすくなる。俊明は続けた。
「だけど、返事がもらえなかった。その代わり、変なものをもらった。原稿用紙だ。なんでも、香苗さんの父君の遺作なんだそうだ」
 俊明はブリーフケースからA4サイズの紙の束を取り出した。机の上に置く。
「新作のアイデアを、物語化したものらしいんだ。ねえ、おもしろそうだろう? 彼はそうやってアイデアを練って、想像を膨らまし、夢豊かな、遊び心いっぱいの作品を生み出していたんだ。なあ、すごいだろう。そう思わないかい? 作家の創作の秘密の一端を垣間見るようだよ。で、この物語を完結させる前に、例の事件でお亡くなりになってしまった。まことに残念無念。でね、で、で、これ、読んでもらったらわかるけど、つまり、謎解きになってるんだ……」
 途中から、佐知の顔が険しいものになっていた。俊明は慌ててしゃべり続ける。
「で、で、で、香苗さんが言うには、これを解いて下さったらと……」
 佐知はみなまで聞かず、断固たる態度をとった。顎をしゃくったのである。ドアの方へ。
 俊明、しばらくすがるような顔つきをしていたが、やがて、太いため息をついた。
「……そうさ。そうだよな。これはオレが〈傍点〉自分の力のみで解決しなきゃならん問題〈/傍点〉だ」
 椅子から立ち上がると、ドアに向って歩き始める。
 と、背広が引っ張られた。振り返ると、佐知がつかんでいる。彼はうんざりした声で――そして気のせいだろうか、少しばかり興味を含んだ声で――言った。
「コーヒー……」
 俊明、ぱっと顔を輝かせると、いそいそとキッチンに立つのだった。

         2

 パズル作家・森下英作〈もりしたえいさく〉の死亡事故があったのは、ちょうど一年前だった。不幸なことではあるがよくある事故、として片付けかけられていた。それを殺人事件だと指摘したのが、佐知だったのである。
 一転、ライバル関係にあった同業者が逮捕された。当時流行った、どっちが裏か表かわからない、「クライン・ボール」というパズル要素の高い玩具の、発明者であるという名誉と利権の略取が動機だった。
 香苗は英作の一人娘だった。パズル作家の娘というだけあって聡明で、かつ――可愛かった。つまり、一目惚れしてしまったのである。いつものように隠密の上に済ませることが出来るわけがなく、この時は佐知と決めたハガキルールから外れ、大いに頑張った。と言っても、ほとんどは佐知の指図である。佐知は内心どう思っていただろう? ともかくこれが縁で、ついに昨日、香苗にプロポーズするまでにいたったのだ。

         ※

 俊明は佐知の前にコーヒーを差し出すと、原稿の束を手に取った。
「では、いつもの通り読み上げます……えへんっ」
 香苗が俊明のために用意した、結婚試験問題とは、以下の文章だった。

         ※

 昔むかし――
 ある国に、たいそう仲のよい四人の王子様がおりました。名前はそれぞれ、スペード王子。ハート王子。ダイヤ王子。そしてクラブ王子です。
 ところがある日、悪い魔女に呪いをかけられ、透明にされてしまったのです。
 これを哀れんだ味方の妖精は、四人のために魔法をかけました。
 すると不思議なことに、透明なのに、だれがだれだか、わかるようになったのです。
 これを知った魔女は怒り、四人を一人ずつ、四つの部屋に閉じこめてしまいました。
 さらに、なんということでしょう! 何にでも変身できる人食いモンスターを二頭、これも二つの部屋に入れてしまったのです。
 部屋の数は六つです。横一列に並んでいます。左端から一号室、二号室、……そして最後の右端が六号室です。部屋は石作りでとても頑丈です。扉は鉄でできていて、窓もなく、声も届かず、部屋の中にだれがいるのかわかりません。
 魔女は嘲るように言いました。部屋の扉は外側からしか開けない。自由に助け出すがいいさ! だけど、モンスターの扉を開けてしまったら、さて、どうなるんだろうねえ!
 王様と王妃様は嘆き悲しみました。そして、とどのつまり、国中にふれを出すのです。
 王子を助け出してみせよ。さすれば、褒美は望むままである。
 しかし、だれもが尻込みしました。それは当然でした。まったくわからなかったし、当てずっぽうにやって、万一モンスターの扉を開けてしまったら、ひどい死に方をしてしまいます。
 王様を始め、国中の人たちは、嘆き悲しむことしかできませんでした。
 ところが、ここに一人の少女が名乗りを上げたのです!
 名乗りを上げた勇者が少女だと知ると、王様はびっくりしてしまいました。
 娘よ、見上げた勇気である。が、気持ちは有り難いが――考えなおすがよい。
 美しい少女は毅然として答えました。
 いいえ、大丈夫でございます。どうかお任せ下さいまし。
 少女はとうとう押し切り、六つの部屋の前に立ったのでした。
 はたしてこの少女に、王子たちの部屋を割り出す知恵があるのでしょうか?
 ……いいえ、実はまったくなかったのです。
 少女は一命を投げ捨てる覚悟で、この試練に臨んだのです。自分の犠牲で人々を奮い立たせ、あとに続く本物の勇者の出現を願ったのです。その者の知恵を信じて!
 そして、少女は扉に手を伸ばしました――

         ※

「……ここで一段落。オレ内心青くなったよ。ここで終わりかと思ったんだ。ひどすぎるだろ? これじゃ、いくらお前でも、どこに誰が入っているかわからないだろ?」
 佐知はうっすらと、冷笑ともとれる笑みを浮かべて答えない。彼は引き出しからトランプを一組出すと、カードを探し始めた。やがて机の上に、四枚のエースと、二枚のジョーカーが選び出された。
 残りのカードを脇に置き、佐知は計六枚のカードを裏返し、無造作にシャッフルした――ように見えた。そして、俊明の目の前に並べていく。俊明から見て、左端から順番に。
「……まさか」
 相手はなんにも答えない。額に汗が滲んだ。鼓動が速くなった。咳払いした。
「と、とにかく続きを読むよ。実はこのあと、ヒントらしきモノが出てきて、しかも問題そのものも、ある意味とても簡単になってしまうんだ……」

         ※

 ――少女の意気地に感心したのでしょうか、神様は、奇跡を起こされました。
 少女は、最初から偶数番の部屋を開けるつもりでいましたが、それがことごとく当たったのです。
 二番目の部屋からは、ハート王子が現われました。
 四番目の部屋からは、ダイヤ王子が現われました。
 そして六番目の部屋からは、クラブ王子が現われたのです!
 さあ、残るはただ一人、スペード王子のみです!
 残された部屋は、奇数番の部屋のみ。
 一号室。三号室。そして五号室。
 この中の一つの部屋に、スペード王子が閉じこめられているのです。
 そして忘れてはいけません、残り二つの部屋には、人食いモンスターが!
 この時になって初めて、少女は神に祈りを捧げました。
 どうかわたくしめに、真の勇気を――!
 少女は身を震わせて、ある部屋のノブに手を掛けました。

         ※

「……以上でおしまいなんだけど。さっきオレが言ったヒントらしきモノってぇのは当然、偶数番の部屋から出てきた三人の王子様たちのことだ。これは間違いなく、何らかのルールに基づいて、部屋割りがなされたことを示している、はずなんだ。そして問題が簡単になったと言ったのは、捜し出すのはたった一人だけでいいってことになったからだ。確率はたったの三分の一だもんな。
 なあ、サチ。先走りしてカードを並べちゃって、後悔してるんじゃないか? まさかこんな展開になるとは思ってもみなかったろう?」
 佐知は指をくちびるにあて、まるで纏わり付く痛みから逃れるかのようにかすかに首を振った。その沈痛な表情に、俊明は急にバツの悪い思いがしてきた。なんて大人げないことを! ――焦った。
「あの、な? なんならなかったことに……」
 その時だった。
 佐知の腕がシュンと伸び、細長い指が、俊明から見て、左から二番目のカードをひっくり返したのである。
 それは、ハートのエースだった!? 俊明は息がつまった。
 佐知はまるで債権取り立てのごうつくおやじのように容赦なく、俊明の左から四番目のカードをひっくり返す。――ダイヤのエース!
 三枚目、左から六番目、つまり右端のカードをひっくり返す。――ああ、それはまごうことなく、クラブのエースだった! 俊明は急に目眩におそわれ、体が椅子から滑り落ちそうになった。コメディアンのようにギョロッと目を見開き、叫んだ。
「――なんで!?」
 佐知は肩をすくめると、コーヒーを一口すすり、とぼけてそっぽを向いた。

         3

 俊明の目の前に、解答が並べられてあった!
 そう、これは解答なのであった!
 ちょっと手を伸ばして――あるいは息を強く吹き掛けてでもいい――これをひっくり返せば、答がわかるのだ!
 だが――
「ああ! できない……」
 俊明は頭を抱えた。そんなことをすれば、一生軽蔑されるだろう。佐知は、俊明はそんな真似は決してしないと信用して、実物のカードを並べたのだ。実際にめくってしまったら、裏切りになってしまう。そうなったら最後、二度と相手してもらえなくなるに決まってる。
 何よりも、そんな真似は、ズルなのだ。これは、俊明のための問題なのだ。自分の力で解かなければ、香苗に対する背信行為になってしまう。
 この佐知の部屋に来たのは、なにも解答そのものを教えてもらうためではなかったはずだ。ヒントだ。ヒントを――ただしヒントをもらえたとしても、解ける自信は全然なかったが――ヒントのヒントでもいい、問題攻略のヒントを教えてもらいたくて、やって来たはずだった。だが、今の状況は――?
 俊明は突然、事態は何も変わっていないことに気付いた。なるほどたしかに目の前にカードが並べられてある。だが、それだけだった。佐知はただ、問題を再現させただけなのだ。そう、すべては今ここからなのだ! ファイトが湧いた。彼は顔を上げた。
「ありがとう。とにかく、何らかのルールが確かに存在することは、わかったよ」
 佐知が俊明を見つめ、そしてコーヒーを一口飲んだ。

「これがトランプのことだとは、オレにもすぐわかった。四枚のエース。そして、二頭のモンスターというのが、ジョーカーだろう」
 佐知は無表情。うんともすんとも言わない。俊明はとかく力が抜け落ちそうになるのに堪えながら、気力を振り絞って話し続けた。
「ほら、このくだり。『何にでも変身できる人食いモンスターを』うんぬんかんぬん……。『何にでも変身できる』と書いてある。これはオールマイティ、どう考えてもいいですよ、ということに間違いない。すなわちジョーカーだ。この二枚のカードは、オレが考えたルールに無条件に従うのだ」
 無反応。かすかな体の動きすらない。相づちがないというだけで、こんなにもしゃべりにくくなるのか? ふだんオレは、自分の社員にどうした態度をとっていただろう? 俊明はこんなところで反省する。
「……で、……で、……で」
 あとが続かない。
「……で、……ここでつまってしまったんだ」
 つまるも何も、これではただ問題を確認しただけである。ここで終わってしまったら、ただのバカだ。俊明は顔を真っ赤にさせ、目を白黒させ、苦しそうに、明らかに今思いついた考えを吐き出し始めた。
「……あの、ハートとダイヤは赤で、クラブとスペードは黒。ジョーカーはどっちにもなれる……。だから、黒、赤、黒、赤、黒、赤……。ああ、だめだ。クラブは黒だ。そうか、奇数は奇数同士、偶数は偶数同士、同じ色になるんだな」
 世紀の大発見にため息をつく。と、急に目が輝いた。
「おい、これはどうだ? 赤、赤、黒。赤、赤、黒。これなら規則性があって、しかも、ハート、ダイヤ、クラブの色も合っている。それに……なんと! おい、伏せられた奇数番の三枚のカード、この考えだと、赤、黒、赤になる。やった! たった一枚しか黒がない! これがスペードでぴったしじゃねえか!」
 興奮して佐知を見ると、彼はやっぱり無表情だった。俊明は急に自信がしぼむのを感じた。
「ええと、間違っちゃったのかな……?」
 むろん答えはない。俊明、いきなりバンザイした。
「それとも、大当たりー……なんちゃって?」
 俊明にも、佐知の無反応の意味がよくわかっていた。間違えていたとしても、間違えていると教えてはもらえない。間違えていると教えてもらったら、それは結局、答えを教えてもらうことと変わらないのだ。
 俊明は机の上のカードを見た。そしてもう一度、原稿を読み始める。まもなく、彼はうなり声を上げた。
「『ある日、悪い魔女に呪いをかけられ、透明にされてしまったのです』……うっかりしてたよ。色は関係なさそうだ。だけどそれじゃあ、区別がつかない。問題が成立しない。……いや、『不思議なことに、透明なのに、だれがだれだか、わかるようになったのです』か。ちゃんとフォローしてやがる……」
 ここで、俊明は何かが頭に引っ掛かった。透明なのにわかる? それはどういうことなのだろうか。しかし、それ以上考えが進まなかった。表なのに裏、裏なのに表。あるのにない、だけどないのにある。開けられるのに開けられない。――どっちが虚か実か? 人をケムに巻き混乱させるのが、森下英作の作風だった。俊明は原稿に目を戻した。
「……何にでも変身できるモンスターか。もし助け出した王子様が、実はモンスターだったら、これは相当恐いな」
 そんな感想を口にしながら、読み続ける。
「……部屋の並びは、横に一列だ。これ、なにか関係あるんだろうか? 石作り、鉄の扉。密室? 被害者がどこにいるのかわからない密室? いや、関係ないか。扉は開くんだ。死者もいない。逆に死者を出したらだめなんだ。……単なる、確率の問題か? ……うう。……ああ。……だめだ。あとは、ただの物語に過ぎない。蛇足だよ。部屋の説明のあと、おふれが出て、美少女が登場する。ところがこの娘、なにをトチ狂ったのか、まったくの無策だと言う。ところがどっこい、ここで神様の登場だ! 偶数番の部屋を開けたら、見事三人の救出に成功だ! ハレルヤ! なんだい、ずいぶん都合がいいじゃねえか!」
 俊明はいつの間にか立ち上がり、両手を広げて喚いていた。ふと、我に返り、机の上に目を落とす。
「……そうだった。お前は、神様が登場する前に、カードを並べたんだっけな。しかも、正確に、三人の居場所まで当てた。なんであれ、後半なんかどうでもいいんだ」
 どっかりと椅子に腰を下ろす。
「……なあ、香苗のやつ。……OKなんだよ。多分。でなかったら、そもそもこんな問題、出しゃあしないさ。あいつ、オレが理路整然と解答するところが見たいのさ。オレが頭がよくて、かっこいいところが見たいのさ。まだ女の子なんだよ。笑っちゃうね」
 突然、俊明は本当に笑いだした。
「……そしてこのオレは、彼女にいいとこ見せたいと思っている、ガキなのさ」
 自分が情けなかった。いたたまれなくなり、それでも年長者としてのミエを張り、俊明はゆっくりと腰を上げた。
「邪魔したな」
 その時だった。佐知が――
 ――
 俊明の肩を――
 ぽんと――
 軽く叩いたのだ!

 いまだかつて、こんなに親しげにされたことはない――!?
 びっくりして戸惑う俊明の両肩に、背に回った佐知の手が掛けられ、彼は椅子に座らせられた。さらに驚くべきことが起きた。佐知が、キッチンに、コーヒーを淹れに行ったのである。
 誰のために? ――俊明のためにだ!
 目の前に差し出される香り豊かなコーヒー。手が震える。――苦く、熱いコーヒー。そして、表現できぬそのうまさ! 一生忘れられない!
 雪が降るのではないか?
 こんなことはかつてまったくなかった。ありえぬことだった――!?

         ※

 香苗の試験問題。
 その答を佐知は知っている。そして、それを俊明〈オレ〉に伝えたいという意志が――ある。
 しかし、この問題は原則として、俊明が自分の力のみで解答しなければならないものだった。
 佐知は俊明に正解を話すことはできない。また俊明の解答について、正しいとも、間違っているともコメントできない。
 ヒントもだめだ。人によっては、限りなく解答に近いヒントも有り得るからだ。
 くわえて、佐知はふだんから、たったの一言で物事を済ましているのだ。どうにかして伝えようにも、その時にかぎってべらべらしゃべったら、ある意味、ダブルスタンダードと非難されかねない――
 自分と香苗の結婚。そんなの、彼にとっては下らぬ、俗世の事象だった。
 伝えてはいけない、伝えられないことを、いかにして伝え、そして〈傍点〉このオレ〈/傍点〉に理解させるのか?
 今考えるに、佐知が僅かでも興味を覚えたのは、ただこの一点にあったのだ。
 そして彼がとった方法は、思うに悲しくも最良の手段だった。
 言葉として伝える場合、ぎりぎり許されるのは、ヒントのヒントまでであろう。
 さらに佐知はその言葉を、俊明が自ら思いつくように、誘導したのである。
 俊明が知り、佐知ももちろん知っている言葉。それは、当然のことながら、二人の共通の記憶、思い出の中に存在した。

         ※

 ――とは言え、その時の俊明には、そんな認識などまったくなかった。
 佐知の演出した雰囲気に酔い痴れ、俊明はのんきにもしゃべり始めた。
「オレは幸せだ。お前にここまでしてもらえるとは、思ってもみなかった。夢のようだよ。生きててよかったとしみじみ思うよ。うまいよ。最高だ。これに比べりゃ、そこらの高級なんとかの最高級なんとかなんか、屁でもない。泥水さ。タコの墨さ。ウサギの糞を三、四粒、お湯に落として溶かしたものにすぎないよ」
 佐知はおもしろそうに耳を傾けている。こんな上機嫌な彼を見るのは嬉しいことだった。俊明はいよいよ気分が乗り、あれこれと話が飛び、笑い、しゃべり続けた。俊明は、本当に幸せだった。
 話は過去の事件のこととなり、俊明は熱っぽく語った。そして友人を称賛した。いくらでも語れた。
 やがてそれも出尽くし、なおもしゃべり足りぬ俊明は、ぐるりと部屋を見回したあと、ついに、その話題を口にしたのだった。

         4

「多分自覚してないと思うけど、お前はずいぶんと優雅な生活を送ってるんだぜ。しかも今のところ義務や責任もない。煩わしいことなんかなんにもない。苦労もない。好きなことして暮らして行けるなんて、なんて幸せなことか。だけど、それもこれもみなあれのおかげ。あれがなかったら――」
 ここで、高速回転する舌に急制動がかかった。うっかり禁忌領域、例えば神社の境内なんかに、車を突っ込ませてしまった気分だった。なにかが壊れる――神のタタリ?! この話題はこれ以上は真剣にヤバイ。そんな気がする――
 ――と、ぱっと顔が輝いた。あったあった、まだあのことを話していねぇじゃねえか!
「そうさ、サッちゃん、お前との最初の出会いをおぼえているかい――?」
 俊明、新しい話題に嬉しそうに言葉を続けた。
「まさか忘れたなんて言わないだろうな? 最初、それこそお前は、どこにでもいるフツーの高校生だった。バイト少年だった。ところが、ある時からお前はオレにとって、まるで神様のような存在になったんだ。オレにとっては劇的だったんだ。それのおかげで――そうさ、お前の例の、最初の、記念すべき一言さ。あれは――」
 佐知の手が素早く伸び、俊明の口を塞いだ。驚く俊明に顔を近付けて、佐知は、とうとうその一言を言ったのだった。 
「……塗り絵」
 俊明の体が硬直した。
 親しげな佐知のふるまい、ついに出た佐知の決めの一言。だがその言葉は、自分がしゃべるつもりでいて――
 その一言というのが――
 ――塗り絵! 
 あらためて思う。――これは二人の、記念すべき言葉だった。この言葉で俊明は成功し、この言葉で佐知との関係が始まったのだ。以来、いくつもの事件に係わり、冒険し、歳の差を乗り越えて友情を育み――
 塗り絵! 塗り絵! 塗り絵! ――!
 頭の中で、透明な光が爆発した。
「……わかったぞ!」
 目がらんらんと輝いていた。
「輪郭線だ――!」

         5

 目の前に、三枚の伏せられたカードがある。
 それは、三つの扉だった。
(間違えたら、オレは死ぬんだったな……)
 汗が噴き出た。
 俊明は震える指で、一枚のカードを指定した。
「この部屋に、最後の王子様がいる……!」
 顔を伏せたまま、俊明は続けた。
「色は全然関係ない。輪郭線だ。透明なのに区別がつくのは、輪郭線があるからなんだ。これを考えたらいいんだ。各部屋と、いや、数字と対応しているなにかを発見したらいいんだ。そしてそれは――」
 俊明は声を張り上げた。
「――画数だ!」
 顔を上げた。佐知を真っすぐ見つめる。
「あるいは線の数だ。――いや、〈傍点〉角〈/傍点〉の方がわかりやすいか?
 輪郭線の線と線のつなぎ目、不連続点、特異点――〈傍点〉急激に折れ曲がった箇所〈/傍点〉だ。
 たとえばハート。これは左右一つずつの曲線で出来上がっている。そして上と下の二点でつながっているんだ。
 次にダイヤ。一番わかりやすい。四つの線、四つの接続点。
 そしてクラブ。一番形が複雑だ。だが見てくれ――」
 俊明はクラブのエースを指差した。そして数を数える。
「――六つだ!」
 また視線を佐知に戻した。
「だから、だから、だから――」
 佐知は無表情。ただ、眼差しがいくぶん、和らいで見えた。

         6

 冬荷佐知は、本を読みながら声をかける。
「コーヒー……」
 ふと面を上げ、やがてあるか無きかの苦笑を浮かべる。部屋の中には、自分のほか、誰もいなかった。
 視線を本に戻す。ページをめくる音がする。めくったあとの左手が、置きっぱなしのカードに伸びた。
 自分から見て左から二枚目。俊明側から見て、左から五枚目のカードを、指で弾いた。
 カードは机を滑り、ひるがえって床に落ちた。――スペード・エース。
 それだけだった。
 冬荷佐知は、すでに本に没頭している。

         7

 香苗を伴い、佐知の部屋の前まで来ると、その部屋は空き部屋になっていた。
 瞬時に悟った。
 もう、会えないことを。やつは、オレから去ってしまった、ということを。
 俊明は大きなものを獲得した。そして、それと同等以上のものを失ったのだ。
(なあサチ。本当に、いろんなことがあったよな……)
 ふいに、涙があふれた。香苗の前で、その涙を隠そうともせず、止めようともせず――
 ――あの日、佐知はドアまで俊明を送った。単純に嬉しがる俊明に、最後に彼は、こう言ったのだ。ほほ笑みとともに。
「さようなら……友達」










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